『生物と無生物のあいだ』
福岡 伸一著
講談社刊 2007.5発行
価格:¥740+税 新書判 / 285p
ISBN:9784061498914
一気に読んでしまった。そして読み終わった後、すとんと腑に落ちる本でもあった。この福岡さんの新著『生物と無生物のあいだ』は、生物学者としての自身の歩んできた道を振り返りつつ、「生命」と向き合った本だが、DNAと生命をめぐる科学史の読み物にもなっている。そして、専門的な事柄を、どのように噛み砕いて書くかという著者の“苦闘”が感じられる本でもある。
1953年、今では中学生でも知っているDNAの構造が二重ラセンであることが、若き研究者のワトソンとクリックによって“発見”される。著者は、このDNAがなぜ「生命」を規定しているかを説く。「生命」とは自らの複製を作り出す能力(自己複製)を持つシステムだとする。著者の若いころのニューヨークとボストンでの研究生活を重ね合わせ、行きつ戻りつ、このDNAの二重ラセン構造の発見の光と影をたどり、なぜそれが自己複製を可能にしているかを俯瞰し、整然とした秩序体系としてのDNAシステムをみせる。しかし、この本の本当の価値はこの後にある。
現在の生命科学やバイテクのバックボーンには、DNAを操作すれば何でも可能であるという「唯DNA論」のような考え方が跋扈しているかにみえる。機械論的な生命理解である。こうした考え方に著者は、生命はDNAだけでは決まらないのだと、次のカードである動的平衡論を切る。1941年に自ら命を絶ったドイツのルドルフ・シェーンハイマーは、身体に取り込まれた食物が分解され、身体を構成している原子、分子と入れ替わることを明らかにした。生命体を構成する原子や分子は絶えず入れ替わっているというのだ。原子レベルで見たとき、ヒトの身体は数ヶ月前とは異なり新たな原子や分子で構成されているというわけだ。「食べる」ということは、「栄養を採る」のではなく、原子、分子を入れ替えることであり、瞬間で見ればヒトの身体はその時点での平衡状態にあるという。平衡状態を保ちながら、原子、分子レベルで入れ替わり流れていく。細胞分裂をしないとされる脳細胞ですら、この原子レベルでの入れ替わりが起きている。そして、この入れ替えを止めるときが生命体としての死であるという。動的システムとしての生命システムの秩序は「守られるために絶え間なく壊されなければならない」のだ。これは「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし」と、鴨長明の『方丈記』の書き出しを想い出させる。動的平衡論とは、この方丈記の哲学にも等しい。しかしそれは、必ずしも方丈記で言われるが如き無常ではないのだ。ダイナミックに動き、流れているのだ。
さらに著者は、自らの膵臓の消化酵素をめぐるタンパク質PG2をめぐる研究を示し、システムとしての生命が機械論的に割り切れるような単純なものではないという。PG2というタンパク質は、消化酵素を作るうえで必要不可欠なものだと明らかにされた。では、PG2を作れない生命体は、膵臓で消化酵素が作れなくなり障害がおこるはずではないのか。著者らは、PG2産生遺伝子を取り除いたノックアウトマウスを作り出す。しかし予想通りには進まない。このPG2ノックアウトマウスは、何事も無かったように育ってしまう。実験は失敗したのだ。このことを著者はいう。「生命という動的平衡が、PG2の欠落を、ある時点以降、見事に埋め合わせた結果なのだ」と。そして、「何事も起こらなかったことに驚嘆すべき」で「生命を、機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである」と結ぶ。ここには、著者の自然や生命に対する畏敬の念、あるいは寄り添う姿勢が流れているのをみる。この最後の一文を言いたいがために、科学史の体裁をとり、淡々と自らの研究を振り返っているかのようでもある。
この本の帯には「読み始めたら止まらない 極上の科学ミステリー」とある。前半分はそうだ。しかし、後半は明らかに違う。研究者の多くが口を閉ざし、社会的な発言を自ら封ずるような風潮が感じられる昨今では稀有な本といえる。生物「工学」やバイオ「テクノロジー」などと「生命」を機械的にいじくりまわすかがごとき状況に対して、明らかに一石を投じている。結びの一文は、遺伝子組み換えや臓器移植に対する“アンチテーゼ”でもある。あえて不遜を承知で言うならば、著者が意識しようがしまいが、「生命」に真正面から向き合ったこの本は、生物学者・福岡伸一の自伝であり、中間総括であり、マニフェストである。
よく「眼からうろこが落ちる」というが、それよりも、単なる共感とも違う「すとんと腑に落ちる」本である。ぜひ、一読を。